実名と匿名の間に仮名を挟み込む

匿名について「正体を隠すこと」という意味と「実名ではない」という意味が混同されていることがあります(“名”という文字が含まれているからでしょうか)。そこで、名前について少し整理をしていきます。

実名を仮に「日本国の戸籍謄本において本人と紐付けられる氏名」とでもしたときに、「実名とは別に継続反復して用いられ、本人と紐付けられる名称」として、仮名/通名/ハンドル名/筆名/芸名/雅号など(以下“仮名”)という概念を導入しましょう。こうすることで、匿名と実名に関する無用な混乱を回避できるように思います。

そもそも実名であることに意味がどの程度あるのでしょうか。同姓同名は普通に存在しますし、他ユーザが戸籍を確認できるわけでもありません。識別を国民総背番号制で行いでもしない限り、結局のところは「他ユーザが継続して認識できる名称」でさえあれば、実名と仮名には大差がなかったりします(実社会については面倒ですから別の話とします)。

〈まとめ〉
 ・実名
 ・仮名
 ・匿名

しかし、日常生活では意識することはあまりありませんが、ネットの世界には「実名である」ことに拘りがある人々というのが少なからず居ます。もちろん個人がどのような信条を持つかは自由ですが、自分の信条を押し付けるのは褒められたものではありません。仮名を「実名ではない」から匿名と混同して攻撃することは、無益ですから辞めておきましょう。

感覚的なものを直感的に数値化する

数値でないものであっても、イメージする為に数値化する習慣をつけることは良い訓練になります。「数値でないものを数値化するなんて無茶だ。そんなことに意味はない」という意見もあるかと思いますが、誤差があることを許容した上で、現状を自分の中でモデル化するというのはイメージ力を高め、物事を創り出す素地として大切だと思います。

数値化する練習としては「とりあえず50%より上か下か」という問いかけを自分にしてみることがお手軽でオススメです。半分より多いか少ないかだったら、そこそこ正答率が保てるはずです。

そして上だったら75%、下だったら25%を代入しちゃいましょう。これだけで漠然とした世界が違って見えてくるかもしれません。そして自分の推定した数値に基づくモデルが実際と大きく矛盾しないかを観察します。

慣れてきたら、分割を2分割から3分割、4分割と細かくしていくと難易度が上がります(慣れてないジャンルは大雑把のままで良いでしょう)。

こういう遊びを意識的にやっておくと、知的ストレッチとして良いかと思います。

趣味を持つという異常さ

履歴書を書くときに必ず記入する欄がある「趣味」。結局は話題に困ったときの話のタネとして使いたい面接者のための逃げ道で、「その他に何に興味をもっていますか」というイメージに見栄えの良い包装をしたものに過ぎません。

この「趣味」という言葉ほどギャップを感じるものはありません。私の感覚でいえば、日本人はまず一つも趣味を持ちません。趣味というのは気力体力時間金銭をかなり大きな塊で費やすもので、ライフスタイルに甚大な影響を与えるものです。勤勉で周囲との調和を重んじる日本の人々は、こういったものを「道楽」などと呼んで、あまりポジティブには捉えてきませんでした。最近では「オタク」でしょうか。

趣味人、道楽者、オタクになってしまった人たちは、趣味のないライフスタイルの組み立てをあまり知らず、世間でいう「趣味」が自分たちのいう「趣味」と同じような意味と誤解しがちです。世間の人たちは趣味人の「趣味」が自分たちの余暇の楽しみと同じ様なものと考えがちです(道楽者は余暇に趣味をするのではなく、趣味の為に余暇を作ってます)。

そろそろ日本も豊かになったから、ちっとは趣味を持つと良いと思いますが、道楽者各位は当分は異端という意識を忘れない方が良いでしょう。


議論に勝敗は無いとも有るともいえる

議論は意見の対立をさせる過程で、物事についてよくわかるようにすることです。だから議論には勝敗は無いといえます。でも、なかなか世の中は厳しくて、本当の議論をしている余裕はありません。

時間や力が足らず、それでも結論を出さなければいけないことがままあります。そういう時は、勝敗が出てきます。でも、議論に参加する人が勝つこと(負けないこと)ばかりを考えると、議論そのものがおかしくなってしまうことがあります。

例えば、相手の話を聞こうとしないで話をするのを邪魔をすることは、自分たちでは気がつけなかった見方を教わるチャンスを逃してしまいますよね。

議論には勝ち負けはなくて、そうすることで物事についてよくわかるようになることがスタート地点なんだということは忘れないようにしましょう。

意見の対立をもって尊し

和をもって尊しとする、というスローガンは有名で、日本の風土にそれなりに根ざしたものでしょうが、現代文明の基調は意見の対立をもって尊しとする、だと思います。

これはテーゼとアンチテーゼをもってジンテーゼを模索することでより良いものがもたらされるという仮説です。古代ギリシアで提起されたこの理念は、一定の成果を見せ続けることで支持を集め続け、今日では世界のスタンダードにあるでしょう。そうです、和をもって尊し、ではないのです。

古い言葉での知識人という人々は概ねこの洗礼を当然に受けていて、かつ当然過ぎて無意識なままさまざまな知見を積み上げていったのかと思います。悪くいえば、知見はそういう人たちしかアクセスできないところにありましたから、それで問題はありませんでした。

ところが、今世紀に入ってそういうわけにも行かなくなってきました。今では誰もが手軽に発信できる時代です。和をもって尊しとしない世界に無自覚に乗り出して遭難するケースがそれなりにあると思うと、この点をきちんと学べると良いのかなと思う次第です。

あと、2つのマインドセットを使いこなせるようになると、強みになるかな、とも考えてます。

ブログをはじめること

そろそろ世の中のことについて、自分がどう感じているのかということを言葉にできそうな気がしてきたのでブログを開設する事にしました。

どれだけ続ける事ができるのかは不明ですが、面白くするつもりはあまりなく、淡々と頭の中のことを綴りながら言葉にしていきたいと思います。

ぼちぼちとよろしくお願いします。